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院長プロフィール

はじめまして、院長の中野 聖士です。
怖くない、痛くない、やさしい歯医者さんです。

経歴

1972年 大阪市で生まれる
1991年 大阪教育大学教育学部附属平野高校卒業
1999年 大阪歯科大学卒業

資格取得

  • 日本口腔インプラント学会専修医
  • 八尾市立大正北小学校学校歯科医

院長ってこんな人

誕生

昭和47年の10月、第2次ベビーブームのど真ん中に、歯科医師の父と専業主婦の母のもと、中野家の次男として産声をあげる。
この年、世間では、連合赤軍の浅間山荘事件が起こったり、グアムで生き残りの日本兵、横井庄一さんが発見されたりと、高度成長期の中まだまだ戦後感がほんのり香る、そんな混沌とした時代であった。

生い立ち

幼少期は、祖父母と両親、兄と弟、そして一番下に妹と、今では珍しい8人の大家族でにぎやかな家庭環境の中、すくすく育つ。
そして、成長過程において4人兄弟の2番目として育ったためか、『周りの空気を読む』『バランサー』『要領がいい』という中間子特有のスキルを身につける。

小さい頃はおとなしい性格で、外で活発に遊ぶよりは、家の中で本を読んだり、絵を描いているのが好きな子供だった。
また小学1年生の通知表を見ると体育だけが『もう少し頑張りましょう』になっていたので、あまり体を動かすのが好きでなかったのだろう。
体もぽっちゃりで、今もぽっちゃりである。これは遺伝というか、体質だと思う。最新の学説では、瘦せ型よりちょいぽちゃが一番長生きするというデータが出ている。だから、私は一生ちょいぽちゃでいいと思っている。ソースは知らんけど。

自分で言うのもなんだが、昔から手先は器用で、絵を描いたり、細いか作業が好きだった。これは、私の父も、同じく歯医者をしている兄も、そして木彫りや手芸をしていた母もそうだから、これも遺伝だと思う。手先の器用さというのは、歯科医師に取っては何より大事な要素なので、器用に産んでくれた両親に感謝したい。

幼少期時代~高校生時代

幼稚園、小学校と、秀才の名をほしいままにし、通っていた幼児教室の先生からは『この子は賢い!このままいけば京大にいける!』と言われ、両親は喜んだそうだ。地元でも進学校として有名な学校に進み、人生は順風満帆かに思われた。中学校までは、神童の貯金でなんとかやっていけたが、徐々に成績は下降し、高校は青息吐息でなんとかかんとか進学ができた。ちなみに、高校入学後、初めての中間試験はちょうど真ん中くらいの成績だった。

そこで安心してしまったのか、途端に勉強しなくなり、部活に精をだしながら、悪友とあそびまわる。ここに書くのも憚られるが、トースターを持ち込み教室でパンを焼いたり、天王寺の喫茶店で制服でタバコを吸っていて、補導員に見つかり停学になったり、塾に行くと嘘をついて友達と麻雀したりと、悪の限りを尽くしていた。ただし、喧嘩や万引きは一切したことがない。だから不良ではない。ただの親不孝ものである。そんなわけで、高校時代の成績はみるみる下がり、最終的にはべったから数えて5本の指に入るくらいになった。三国志になぞらえて、アホ五虎将軍入りだ。アホさで言えば、関羽や趙雲クラスだったと思う。あるいは片手シングルともいう。

高校2年生になり、そろそろ進路を決めないと、という話になり、それまでは本当に何にも考えていなかったが、具体的に何がいいかな?と考えてみると、漫画を描くことが好きだったので漫画家かな?と思ったが、まあ、すぐ却下されるだろうと思って、次に好きなことを考えた。その当時、生物だけはすごく好きで、実際成績も生物だけは良かった。だから生物の先生になろうかな、、、くらいの軽い気持ちで、『学校の先生になろうと思う。』と父に話した。父は、大反対はしなかったが、『もう少し安定した職業の方がいいんと違うか、学校の先生は大変やぞ』と、そして『歯医者はお兄ちゃんがもう大学行ってるから、聖士は医者になったらどうや』と言ったのだ。その時は、『ふーん、そうか。医学部行ったらお父さんも喜ぶやろうな』と思ったから、じゃあ、医学部にするわ。ということで、医学部を目指すことになった。

しかし、ろくに勉強もしていなかった五虎将軍が簡単に受かるほど医学部は甘くない。当たり前のように、全敗し浪人生活になった。そして、さしたる危機感もないまま、またダラダラと浪人時代を過ごし、とうとう2浪目に突入してしまった。もう、国立の医学部は絶対に無理だと思い、国立は前期と後期で、自分のセンター試験の結果でも望みがありそうな、地方の農学部と水産学部を受けた。医者や歯医者でなくても、好きな生物が関係する仕事ができるなら、それもいいと思ったのだ。そして私立は医学部にこだわらず、歯学部も受験した。もう3浪はしたくないと思った。そして全ての試験が終わり、結果を待った。私立の医学部は1校だけ1次の筆記試験を合格し、2次試験の面接に進むことができた。しかし残念ながら面接で不合格となった。国立は、後期の水産学部の方が合格した。ホッとした。とりあえずこれで、もう浪人生活とはおさらばできる。そして、歯学部は、父の母校でもあり、兄も在学中の大阪歯科大学に合格することができた。

歯科大の合格通知が届いた時、仕事から帰ってきた父が、こたつで寝転んでいた僕のもとに駆け寄り『良かったな!!』といって、がっちりと握手をしてきた。普段、あまり感情を表に出さない父だが、やはり僕のことを心配していたのだと思う。僕のほうはというと、2浪までして医学部に合格できなかった、しかも私立。という負い目もあり『う、うん、、、ありがとう』と照れくささと恥ずかしさもあって、あまり大喜びはしなかったが、心の中ではとても嬉しかった。

歯科大学時代

さて、水産学部と歯学部どちらに行くかということだが、正直、僕の中では水産学部もいいな、と思っていた。何より、歯科大はもう兄が行っていたし、父のあとつぎは決まっているし、自分は何か新しいことにチャレンジしてみたいという思いもあった。何より、実家を出て、一人暮らしをしてみたいという気持ちもあった。父も母も、『どっちでもええで』と言ってくれた。しかし、両親からは『歯科大に行って歯医者になってほしい』という、気持ちがありありと伺えた。そして僕の、中間子として培われた『人の顔色を読む』のアビリティが発動した。歯科大を選択し、歯医者を一生の仕事にすることを選んだ瞬間だった。

2浪もして、しかも私立の歯科大を選択させてもらえるという、ありがたさに今では気がつくことができる。本当に、両親には感謝しかない。今は、父と同じ仕事をできることが、とても嬉しく、そして誇らしい。

歯科大入学後は、ラグビー部に入りクラブに学業にバイトに大忙しとなる。アルバイトは家庭教師と、ピザの配達。ピザの配達のバイトは面白かった。今ではもうなくなってしまった、独立系弱小ピザ店だったが、お客さんとのエピソードや、ピザ配達のあれこれを知れてとてもためになった。

ラグビーの方は、僕自身は決して名選手ではなかったが、人数が多いクラブだったので、うちの大学は強いチームだった。歯科大学の全国大会では6連覇を飾り、僕も5年生の最後の年には決勝でトライをとることができて、しんどかったけどすごくいい経験になった。当時は早く辞めたい!とばかり思っていたが、今ではいい思い出だ。

学業に関しては、そんなに優等生というわけではなかったが、留年することなく無事卒業し、同じ年に国家試験も合格することができた。こうして1999年5月10日、僕は晴れて歯科医師となった。

最後に

ここまで、読んでいただいてお分かりのように、僕はごく普通の人間だ。小さい頃に、両親が突然蒸発して孤児院に預けられたり、父親の経営する会社が倒産していきなり貧乏になったり、大ケガをして死にそうな目にあって生について考えたり、恋人が不治の病になって地球の真ん中で愛を叫んだり、財布を落としたり、、、あ、財布を落としたことはあった。

とにかく、そういうドラマティックなものがないのだ。だから、僕には何が何でも、どうしても歯医者にならなければならなかった!、、、というはっきりした理由はない。強いて言えば、父が歯科医だったからだ。というか、それが一番の理由だと思う。だから、何かそういうドラマティックなものをかかりつけの歯医者に求めている患者さんには、少し物足りないかもしれない。しかし、この等身大の僕を知ってもらうことで、少しでも皆さんの心理的な負担が軽くなれば、、、とキーボードを叩いている次第である。

でもできるなら、いい加減な人より、ちゃんとした人に自分の歯を診てもらいたいと思うのは当然である。歯医者は学生時代よりも、卒業して歯科医師になってからの方がたくさん勉強をする必要がある。良い歯医者、上手な歯医者になるには、当たり前のことだが、学校で教えてもらったことだけでは、色々なものが圧倒的に足りないのだ。また新しい治療法や、材料、知識や技術などは常にアップデートし続ける必要がある。一生だ。朝から晩まで仕事をして、休みの日はゴルフをしているだけではダメなのである。

これに関しては、僕は卒業後にK先生という素晴らしい師匠と巡り会った。師匠からは治療技術だけでなく、歯科医師としてどうあるべきかという人間のあり方も学んだ。治療技術が優れている歯科医師はたくさんいる。また人間として魅力のある歯科医師もたくさんいる。しかし、この二つを兼ね備えた人は多くない。K先生は、そんな数少ない歯科医師の一人だと思う。

今では、師匠とともに若手歯科医師に治療技術を伝える講習会で、インストラクターとしてお手伝いもさせてもらっているが、自身もまだまだ修行中の身だ。

このように、僕は、特にドラマティックな人生は送っていないが、性格は真面目で、困っている人がいれば助けたいと思うし、力になりたいと思う。そして、歯の治療に関しては、まだまだ研鑽中で、これからも進化してく過程ではあるが、歯科医師として20年、45歳の今、自分には十分その力はあると自負している。

いつの日か、このホームページを見ていただいているみなさんと、お会いできるのを楽しみにしている。

診療に対する考え

当院の治療方針は、保険治療・自費治療にかかわらず、一つ一つの治療を丁寧にじっくりとさせていただくことです。そして、そのために必要な治療時間を確保するために予約診療制を採用しております。
しかし、歯の痛みや、詰め物が取れるというアクシデントは、或る日突然やってくることがほとんどです。そういった場合は、できるだけその日のうちに緊急症状が治まるように処置をさせていただきますので、遠慮なくお電話ください。
ただし、原則として予約患者さんを優先とさせていただいておりますので、飛び込みや予約時間に遅れられた方は、お待ちいただくか、お時間の変更をしていただけようお願いしております。
すべては、『患者さんのために、できる限りの良い治療をしたい』という私の考えのもとです。
どうか、ご理解・ご協力をいただけますよう、お願い申し上げます。